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20140910-____________________________2014-09-10_10_49_31.png


韓国の歴史をたどりながら韓国人を深くエグッて来ました。
何故なら最近の韓国の嫌がらせに対して
個々に反論してもイラつくだけだからです。

韓国人が捏造した歴史ではなく韓国歴史の真実を知ることによって、
今日の韓国人の心理や、
その救いがたい性格や行動様式を理解することができます。

「歴史は人をつくる」の言葉通り韓国人の原型を作ったのは
新羅の民族反逆による朝鮮半島の統一と、
その後に起こった暗黒の国である李氏朝鮮の成立です。

韓国の教科書では三国を統一した新羅をベタ褒めしていますが、
新羅による統一は、外国である唐と結託して
高句麗と百済を不意打ちすることによって滅亡させ、
新羅は進んで唐の属国になった。

つまり朝鮮半島を支配したのは新羅ではなく唐です。
その証拠に新羅は自らを「大唐国新羅郡」と卑下して呼んでいます。新
羅は唐の属国となることによって中国の悪弊を全て被ってしまった。

そして今日の理解し難い韓国人を作り上げた最大の原因は
14世紀に起こった李氏朝鮮の成立です。
李朝は明の属国を自認して、
朝鮮族が千年以上にわたって信仰してきた仏教を徹底的に弾圧し、
儒教の朱子学を国学として迎え入れました。

儒教こそが、本家の中国を2000年以上に渡って退廃させたにもかかわらず、
李朝は儒教を取り入れ、中国の利己的で、残酷な政治文化を進んで手本として、
中国という腐った泥沼に自ら身を投じた。

李朝は500年間徹底した悪政を行い、人命も道徳も顧みることがなく、
人民に暴虐の限りを尽くした。
このような500年に及ぶ地獄の苦しみが
「恨の民族」を作りあげ近代に至るまで、深刻な悲劇を招いた。

このおぞましい李朝が500年間も続いたために朝鮮族の精神を歪め、
今日のような理解しがたい人格を作り上げ、
結果として呪われた国になってしまいました。

李氏朝鮮は、高麗の司令官であった李成桂が
明と通じてクーデターを行うことによって高麗を滅ぼし、李氏朝鮮が成立します。
朝鮮は再び中国の属国に成り下がり明にへつらい、
明を崇めて「大中華」に対して「小中華」であることを誇りにします。

李朝は、500年間一度として法治社会であったためしはなく、
官は好き勝手に民を搾取し、人命も道徳も顧みることがありませんでした。
このような李朝の悪政によって朝鮮族の良心を木っ端微塵に打ち砕き、
自尊心を抹殺し生きるために恥の心を無くしていきました。

今日の韓国が病んでいるのは、
おぞましい社会であった李朝時代がほとんど改められることなく、
そのまま続いているからです。

ここで少し朝鮮歴史の順を追ってみます。

朝鮮歴史の年表を見ていますと676年新羅は唐の勢力を一掃し、
朝鮮半島を統一と記述されていますが、
その80年後新羅は全国の地名・姓名を中国式に改めています。
唐の勢力を一掃した新羅が何故に地名・姓名を唐式に改める必要があるのか? 
唐勢力一掃の記述は疑問です。

新羅を支配していた唐も907年頃力を失い、
中国では各地で王が即位する混乱の時代に突入します。
三国統一した新羅も唐の弱体化にそって同じく935年滅亡します。
つまり新羅は唐の傀儡政権だったということが年表によって分かります。

新羅の統制力が弱体化することによって後百済、後高句麗が台頭してきました。
後高句麗の武将、王権は唐の勢力が無くなった新羅を滅ぼし、
高麗王朝を建国します。936年のことです。

高麗王朝は以後400年以上続き34代にわたり王が次々と擁立されます。
しかし1388年李成桂がクーデターを起こし、新たに朝鮮王朝を建国し、
自ら初代王につきます。

李成桂が開いた暗黒の李氏朝鮮は1392~1910年まで518年間に及びます。
李朝では血みどろの骨肉の争いが絶えず、
法が無視され、勝つことが正義となり、民
衆は生きるために、偽ることが日常の習い性になった。

権力を握った者は不正蓄財や賄賂が当たり前になり、
腐敗社会の泥沼が朝鮮民衆の心に、
遺伝子として今日に至るまで連綿と続いています。
その証拠に今日でも韓国の歴代大統領は就任したら、
国法も国際法も軽視し、退任後は多くの大統領は収賄容疑で逮捕されます。
まさに李朝500年の呪いであり、治ることのない業病だと思われます。


日本は、安倍首相になってから陽光が差し込んできました。
しかし安倍政権に戦争の恐怖を煽って足を引っ張る売国奴が多くいます。
進んでいるような新聞記事やテレビ報道に騙されてはいけない。
多くのマスコミは昨日の生活・思想に引っかかったままで、進歩していない。
私達はいつまでも博物館にばかりいるわけにはゆかない。
明日に繰りだそうとする勇気を常に持っていれば、
よく物を見る力が出て知恵が伸びてきます。



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2021/05/13 08:12 おバカな連中 TB(-) CM(0)
※転載元http://kkmyo.blog70.fc2.com/blog-entry-1002.html

8700a0c4.jpg

先日テレビを見ていましたら、
ある女性コメンテーターが
「集団的自衛権のような重要なことをなぜ拙速に決めようとするのか、
しっかり議論する必要がある」
ときつい調子でコメントしていました。

何を言っているのですか?
もう50年近くも意味もない神学論争に明け暮れてきて、
何も決められずに、なんの実際的対策も持てないでいる日本は
一体どうするつもりですか?

安保・防衛の問題はひとたび事が起きてしまえば、取り返しがつきません。
特に日本の場合、日米同盟を強化するために
集団的自衛権行使を容認して、
抑止力の一段の強化を図る以外すべはありません。

朝日新聞の「自衛権の行使は戦争」という見出しや、
「集団的自衛権の行使は、戦争準備」
のことだとの説明には
明らかに中国の意を汲んだ工作を感じます。

このようなデタラメな朝日の洗脳を受けていると思われる著名人が
テレビの中で
「安倍首相は危険な集団的自衛権を容認する前に
中国とよく話し合うことが重要だ、
首相就任以来一度も習近平国家主席と首脳会談をしていないのは問題である」
との無知発言には只々呆れて、開いた口がふさがりません。

野獣国家中国と一体何を話しあえばいいのですか?
中国は軍備拡大を続けながら世界中の領土・領海を侵犯し、
歴史の捏造、反日キャンペーン、
日本に「軍国主義」のレッテル貼って貶める情報作戦、
サイバーテロ、そして自然を破壊、毒食をバラマキ、大気や河川を汚染、
そして自衛隊機を撃墜寸前にまで接近し、
挙句の果てに「自衛隊機の方から異常接近した」と
見え透いたでたらめな主張をするような
ヤクザ国家と話し合いなどできるはずもありません。

このようなことを言うと、では首脳会談もせずに中国との関係はどうするのか?
と反論されそうですが、答えは簡単明瞭です。
中国とは一切交渉しない事です。
会談もしないのも外交のうちです。

日本の外務省がいつも日本の国益を損するような外交しかできないのは、
外交とは交渉することだと思い込んでいるからです。
外務省は交渉するうちに妥協点、着地点、を探ることが
外交の目的だと思っているからです。

結果ほとんど相手の術中にはまり国益を毀損しています。
それ故中国や韓国のような国際法が通用しない、
正論が意味をなさない国とは交渉しない外交や、
見せかけだけの外交が、最高の国益なのです。

しかし朝日新聞が日々垂れ流す
プロパガンダ満載の記事や論評は
明らかに中国や韓国に支配されています。

若い時私は、
「朝日新聞は社会主義的な価値観を持った新聞」
だと軽く考えていましたが、全く違います、
明らかに「なりすまし日本人」が経営している新聞社です。

戦後の日本の最大の不幸は朝日新聞のような
政治ビラまがいのでっち上げ新聞を国民の多くが読んでいたことです。
集団的自衛権に関しても
まるで中国人民日報のようなウソ満載の記事で
日本人を間違った方向に洗脳しようとしています。

最近、産経新聞は河野談話での
「従軍慰安婦の強制連行」でっち上げ記事の
検証を盛んに取り上げっています。
しかし朝日新聞しか購読していない人は
事実を知らないまま「日本の犯した罪だから仕方がない」と思っています。
こんなことでいいのだろうか。

従軍慰安婦問題に火をつけた
朝日新聞の植村隆記者は、
韓国在任したことのある人で、
その夫人は韓国人であり、
同婦人の母親は
その方面の反日活動家であることを知っていますか?


中韓が世界に広めているデタラメの南京大虐殺の記事が
朝日新聞の本多勝一(本名が崔泰英と云う在日朝鮮人)が
捏造していたことを知っていますか?

彼は朝日新聞社社長の広岡知男氏の知遇を得て
校正係から出発して、記者になった男です。

彼が書いた「中国の旅」も広岡社長が訪中して中国首脳との打ち合わせで
「日本軍の残虐行為」というでっち上げを、証言者の話として発表しました。
ところがそれが全く根拠の無い仕込まれた内容で、
中国のプロパガンダだったと云う事が近年になって明らかになってきたのです。

朝日による反日キャンペーンは成功し、
中国共産党と在日朝鮮人による捏造によって、
戦後の日本は自虐史観が広まり、結果的に土下座外交を招き、
それに乗じて中韓からの精神侵略を受け、
反日左翼の台頭を許して来たのです。

ちなみに広岡社長は自分のルーツが中国であることを側近に語っています。

また在日朝鮮人である本多勝一は京都大学卒になっていますが、
京都大学の卒業名簿には
本多勝一の名前がないことが近年わかってきました。


このように日本を叩き続けてきた
売国朝日新聞をまだ読み続けますか?


中国は戦後から「日本国を解体するプラン」があります。
その解体プランの中に日本のマスコミを抑えこむ事と、
教育によって反日を刷り込むという
周到な長期戦略が含まれた計画があります。

すでに大手メディアは、この反日勢力のコントロール下にあります。
それ故中国政府に都合の悪い報道はあまりしなかった。
産経新聞が毎日のように従軍慰安婦問題について検証しているにもかかわらず、
他の新聞やテレビ局は知らぬ顔を続けています。

日本のメディアの多くは
日本人でなく
「なりすまし日本人」韓国系
に支配されています。

特に政治ニュースにおいて新聞は朝日、
テレビはNHKを中心に見ている人は
日本の真実が見抜けないでしょう。

なぜこのような日本に害する捏造記事を流し続けてきた新聞が消滅しないのか?
それは、長年に渡って営々とマインドコントロールを続け、
そういう読者を育ててきたからです。

それと日教組の教師によって子供の頃から洗脳され、
大人になって朝日新聞を購読し続ければ、
知らぬ間に反軍隊思想が強固になり、
集団的自衛権に対しても
「国際法上、権利は保有するが、憲法上行使できない」
というような、奇妙な、
世界中誰が聞いても理解できないような論法が
正論としてまかり通ってしまったのです

つまり
「相手に守ってもらうのに、自分は相手を守らない」
と言うような卑怯人間を
朝日と日教組は悪意的に作って、日本人を壊してきたのです。
まさに「なりすまし日本人」たちの計画通りになってしまいました。

しかし幸いにもネットの普及により、
朝日新聞が読むに耐えない新聞であることが常識になってきました。
最後に日本を復活させるためには、
昭和27年以前、日本が占領下にあった時期に作られた
すべての法律を無効にして見直すべきです。
特に憲法を中心にして一つ一つ作り直すことが日本復活の鍵です。




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2021/05/12 08:07 おバカな連中 TB(-) CM(0)
※転載元http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2295.html

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日本人は誰しもカレーライスが大好きですが、それを日本の「伝統食」だなどとは思ってる人は誰もいません。
日本人は、カレーはインド生まれだと誰もが知っているし、本家インドカレーも美味しいと楽しむし、
味をさらに日本化することで、さらに美味しくして、ただみんなで喜んで食べているだけです。
昔、日本のカレーライスを食べて、「あまりの美味しさにインド人もびっくり!」などというCMもありましたが、
あくまでそれは工夫の問題であって、カレーを日本生まれだなどと言う人は、おそらく子供でも、いません。

これと比較するのもおかしな話ですが、実はキムチは、朝鮮族にとって外来文化です。
そもそもキムチは朝鮮半島の伝統食ではありませんし、使われている唐辛子も白菜も、朝鮮原産ではありません。
キムチが現在のような辛味の強い真っ赤な食品として朝鮮半島に定着したのは、実は日韓併合後のことです。

キムチの主役の唐辛子は、そもそも南米のチリ産です。
だから唐辛子ソースのことをチリソースといいます。

もともと唐辛子は、南米のチリで、現地の人たちが、すりつぶして下剤として使っていました。
それをコロンブスが薬品としてスペインに持ち帰り、そのスペイン人によって、
ほとんど日をおかずに日本にもたらされたのが、戦国時代の終わり頃のことです。

ですから当初は日本でも、唐辛子は、漢方薬と呼ばれていました。
ちなみに江戸時代初期まで、外来の薬品や薬草は、それが支那からのものであれ、
スペインやオランダからのものであれ、すべて「漢方」です。
オランダのものだけが、蘭方とされるようになったのは、江戸中期以降のことです。

そもそも漢方薬の「漢」という国は、3世紀初頭には滅びてなくなっています。
それを日本人が丁寧に「漢」と呼び続けたのは、日本人がただ律儀なだけのことです。

唐辛子は、薬品として、秀吉の朝鮮出兵のときに朝鮮半島に伝わりました。
これをキムチの発祥としている本などもありますが、違います。
この頃の唐辛子は、あくまで下剤や寒さ対策の塗り薬でしかありません。食用ではないのです。
秀吉の朝鮮出兵から、80年ほどあと、日本でいったら江戸中期にあたる
1670年に書かれた朝鮮の料理本の「飲食知味方」に、漬け物としてのキムチは出て来るのですが、
ここに唐辛子を用いたものは、ひとつも書かれていません。
そこにあるのは、ただの漬け物です。

朝鮮半島で唐辛子を用いた料理が登場するのは、江戸時代後期にあたる文化6(1809)年の「閨閤叢書」で、
ここには漬け物に、千切りにした唐辛子を少量入れることが書かれています。
日本でも、浅漬けに少量の唐辛子を千切りにして入れますが、要するにそれとおなじものです。

キムチがいまのような辛味主体のものに近いものとして書かれているのが、「林園十六志」で、
これは文政10(1827)年の書です。
ではなぜ、文政年間に、あの辛いキムチが広がったのか。
これに実におもしろい歴史があります。

江戸の町の両国に薬研掘(やげんぼり)というところがあります。
ここの町名がどうして薬研掘というかというと、これが読んで字の如くで、
お堀の形状が、漢方医が使う「薬研(やげん)」に似ていたからなのだそうです。

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薬研

この地名からなのか、その薬研掘界隈には、不思議なことに薬屋さんや薬品問屋さんが集まりました。
また薬屋さんが近いからと、漢方医たちもここにたくさん開業しました。
いまでも調剤薬局などは病院の近くにありますが、それと同じです。

寛永2(1625)年といいますから、徳川家光が三代将軍に、まだなったばかりくらいの頃、
この江戸の両国薬研掘に、中島とくえもんという人が薬種商の「やげん堀」を開業しました。

この頃の江戸で流行っていたのが、お蕎麦屋(そばや)さんです。
なにせ簡単にツルツルっと食べれてお腹がふくれるから、気の短い江戸っ子には大流行でした。
そこで、とくえもんさん、この蕎麦の薬味(やくみ)に、唐辛子が使えないものかと考えたのです。

ところが唐辛子をすり潰しただけでは、ただ辛いばかりであじけない。
そこで唐辛子に、麻の実、青しそ、山椒、黒ゴマ、白ゴマ、みかんの皮を入れて、
一緒にすり潰したものを、開業の翌年「七味唐辛子、やげん堀」として売り出したのです。

なんと、これが大ヒット!
なにせ風邪の妙薬で元気が出て、しかも蕎麦汁(つゆ)に入れると美味しい。
またたくまに、とくえもんさんのお店は大繁盛するし、徳川家光の菊の宴に献上したら、
これが家光にいたく気に入られて、なんと徳川家の「德」の一字まで賜って、
おかげで名前もあらため、中島德右衛門。
このお店は、代々続いていて、いまでも七味唐辛子本舗となっています。

江戸で流行ったものは、全国に波及します。
蕎麦やうどんに、唐辛子をちょっと入れておいしくいただくという習慣は、こうしてはじまりました。
ただし、その唐辛子は一味ではなく、七味です。
唐辛子は、日本で、七味になることで、
一般の食用に供されるようになったということを、ひとつ押さえてください。


そして江戸中期、第11代将軍家斉の時代、その襲封祝賀(将軍就任の祝賀)のために、
第12回朝鮮通信使が、日本にやってこようとしました。
あくまでも、「やってこようとしました」。文化8(1811)年のことです。

この朝鮮通信使というのは、隣国からの慶賀の使者という意味においては、ありがたい存在だけれど、
なにせ相手は儒教の国です。自国を立派に見せるためにと、いちどきに600人からの一個大隊でやってきます。
それが朝鮮半島から対馬を経由して、福岡に上陸し、そこから半年がかりで陸路はるばる江戸までやってくるわけです。
対馬から先の旅費は、祝賀を受ける側、つまり日本側の負担です。
一回の通信使で、100万両(約6億円)の接待費がかかります。

当時の幕府の経済力からしたら、金額自体はたいしたことはありません。
勅使下向の接待は毎年のことですが、同程度の経費がかかります。

問題は、朝鮮通信使が、そこが日本であることをまったくわきまえず、
沿道の民家を襲って農作物や鶏を泥棒するし、大声で騒ぐ。
さらに指定された旅館では、そこいらにある器物が軒並み泥棒される。
宿泊させれば翌朝には、朝の大きな御用を、日本人ならちゃんと厠でするのに、
彼らは彼らの国の風習で、一斉に街道の路上でこれをする。
600人が路上でするのです。
どんなに後始末が大変だったことでしょう。

要するに、野生の猿のような野蛮人たちが、延々江戸までやってくるわけで、
これは民衆にしたら、たいへんな迷惑なのだけれど、いちおうカタチは国賓です。
粗略には扱えない。

そんなわけで、毎度迷惑千万な使いだったわけで、
ついに徳川家斉は、この朝鮮通信使について「易地聘礼」といって、
江戸までやってこさせるのではなく、対馬藩で挨拶を受けるだけの簡便な方法に切り替える
(ようするにカンベン(勘弁)してほしいということ)よう求めました。

こうしてやっとのことで第12回朝鮮通信使は、対馬藩足止めとなったわけです。
この足止め成功によって、対馬藩はなんと2万石が加増されています。
どんなにホッとしたか、ということです。

この第12回朝鮮通信使の際に、お土産(みやげ)となったのが、
当時、日本国内で大流行していた七味唐辛子でした。
食事の際に、ちょっとおつゆに七味を入れるだけで、食事がめちゃくちゃおいしくなる。
「これは何か」と聞かれて、帰りのお土産に持たせたのが、七味唐辛子と、唐辛子の実です。
おかげで、その後の李氏朝鮮王朝の貴族の高級食品として、唐辛子が大流行する。

けれど、この段階では、朝鮮では、あくまで唐辛子は貴族の宮廷料理としてだけのものです。
なにせ庶民は食事の際に箸(はし)もスプーンも使わない。

実は朝鮮半島で、一般の庶民が食事の際に、箸やスプーンを使うようになったのは、明治43(1910)年以降のことです。
それまでは、朝鮮半島における庶民の食事は、インド式(手づかみ)です。

このように書くと、「そんなはずはない。
日本文化は食事の作法まで、支那から朝鮮半島を経由したものだし、
箸も朝鮮が日本に教えてやったものだ」という反論がどこかから聞こえてきそうですが、
それが事実がどうかは、下の写真を見たら、一目瞭然です。

この写真は、日韓併合の少し前の平壌辺りの庶民の食事の写真ですが、
お椀はあるけれど、どうみても箸もスプーンもありません。

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日韓併合前の朝鮮庶民の食事(平壌)


日本が朝鮮を統治した時代、朝鮮総督府が何度も出したお布令に、「路上脱糞禁止令」があります。
それまでの半島には、トイレがなく、路上脱糞があたりまえの習慣だったのですが、これではあまりに衛生面でよろしくない。

そこで朝鮮総督府が路上脱糞を禁止したわけですが、ところが人間、食べれば必ずもよおすわけで、
ところが路上では禁止されてしまっている。
そこで朝鮮ではじまったのが、室内で穴を掘り、そこで脱糞するという習慣でした。

穴が満タンになると、そこに土をかけ、室内の別な場所に別な穴を掘って、そこでする。
これを何年か繰り返しますと、室内の縁の下が全部有機物になり、地面が自然発熱してたいへんに温かくなる。
その生暖かいところに野菜を入れた甕(かめ)を、頭だけ出して埋め、その中で漬け物をする。
すると、おいしい漬け物ができる。

ところが雨が降ると、雨水があふれる。
甕の中に、その・・・有機物の汚水がはいる。
こうなると、せっかくの漬け物に、妙な臭いがついてしまいますし、
しばらくすると甕の中で回虫の成虫が泳ぐようになります。
そこで臭い消しと、回虫の成虫を殺すために、甕の中に唐辛子をどっさりと入れるようになり、
これがいまのキムチになったわけです。
(ちなみに、回虫の卵は唐辛子を入れても死にません。)
おかげでキムチは各家庭ごとに味が違い、特に美人女性のいるお宅のキムチは美味しいのだそうです。
私はまったく食べる気がしませんが。

もうひとつ、キムチに使われる白菜です。
これも、白菜が一般に栽培されるようになったのは、
名古屋の野崎徳四郎が大正時代の初め頃に栽培に成功したことがきっかけです。
それまでは白菜は、畑での栽培はされていないし、食用としての普及もしていません。


ちなみに、どこの国のどんな食材でも、食用化されてから何百年も経ちますと、
必ず、その食材を様々に加工した食品が出回るようになります。
牛の乳が、チーズになったのもそうですし、大豆や米や小麦などは、
もうびっくりするくらい様々な形に加工されて食されています。
ところが白菜は、漬け物か水炊き用に使われるくらいで、あまり凝った加工はされません。
つまり、食用になってから、日が浅いということです。

さて、こうしてキムチは、日本から渡来した箸文化と、唐辛子
これに日本の統治時代の「路上糞便の禁止令」に、大正時代の白菜の普及が加わって、いまのカタチとなりました。

つまりキムチは、朝鮮の伝統食などではぜんぜんなくって、
ほぼ、大正時代にいまのキムチのカタチとなった、非常に歴史の浅いものにすぎません。
要するに、キムチはあくまで「朝鮮名物」であって、「伝統食」ではないのです。

韓国の歴史教科書では、オクレていた日本に、あれも教えてやった、これも教えてやったなどと、
様々な文化を日本に教えてあげたのだと記載しているそうですが、
さて、日本が韓国から教わったものって、何があるのでしょうか?

仏教ですか?
仏教は、韓国発祥ではありません。
陶磁器ですか?
陶磁器は、日本では縄文時代から長くつくられています。
キムチですか?
もともとは漬け物でしかありません。しかも発酵食品文化というのは、日本古来の食文化です。
文字ですか?
ハングルを朝鮮族の公式な文字として採用したのは日本です。
他に何がありますか?

あ、ありました!!
チャリンコ(自転車)、パシタ(情婦)、チャカ(拳銃)・・・他に何かありましたっけ?



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2021/05/11 12:35 おバカな連中 TB(-) CM(1)
※転載元http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2928.html

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いま、猛烈に忙しくて、なかなか新規記事を書いている時間がとれません。
そこで今日は、『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人・第一巻』から、
「秀吉の朝鮮出兵」をお届けします。
すでに本でお読みの方も、是非、いまいちどお読みになってみてください。
学校で教えられたり、あるいは戦後、小説などに描かれた秀吉の朝鮮征伐が、
いかにデタラメで浅はかなものかわかります。
事実のほうがよっぽど面白い。

本文をご紹介する前に、ひとことだけ理由を書いておきます。
実は、秀吉の朝鮮出兵のことをしっかりと考えると、
国防の大切さ、九条の虚妄、明治以降の日本もしっかりと見えてくるのです。
このことは逆にいえば、九条を守り、日本から国防を奪い、
戦前の日本が悪い国だったという虚構を進めようとすれば、
秀吉の朝鮮出兵は絶対に容認できない歴史ということになるのです。
だから政治的にも学問的にも故意に捻じ曲げられました。
でも、本当のことを知ると、もう、めっちゃおもしろいのです。




【秀吉の朝鮮出兵】
『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人・第一巻』P.132より

▼世界史の視点から朝鮮出兵の真意を探る

最近の韓国で、豊臣秀吉はもっとも嫌われている日本人のうちの一人なのだそうです。
文禄・慶長の役で朝鮮半島に攻め込んだというのが、その理由だそうです。
一方、この出兵に際し、
日本と朝鮮半島の海峡で戦った李舜臣は、まさにヒーローとされているそうです。
彼らの言い分によると、李舜臣の活躍によって、日本は海上を封鎖され、
朝鮮半島への補給路を断たれた為に、半島からの撤退を余儀なくされたからなのだそうです。
まあ、韓国人にとって歴史はファンタジーですから、
そう「思い込みたい」気持ちも分からないでもありません。
けれど、事実関係はまるで異なります。

李舜臣についていえば、なるほど朝鮮の海将として
文禄元(一五九二)年八月二十九日に釜山港を占領していた日本軍に戦いを挑んでいますが、
あえなく敗退しています。
また、慶長三(1598)年11月18日の露梁海戦(ろりょうかいせん)ですが、
これは停戦協定が結ばれたあとになって、
朝鮮半島から引き揚げる途中の日本の軍船に追い打ちをかけたという、卑劣な戦いです。
しかも李舜臣は、この海戦で返り討ちにあって戦死しています。
李舜臣によって、海上補給路を断たれたという事実は、どこにもないのです。

そもそも、秀吉の朝鮮出兵については、誤解と偏見がまかりとおっています。
戦国時代や秀吉を描いた歴史小説においても、
秀吉の朝鮮出兵が「なぜ行われたか」について、
きちんと踏み込んで書いているものは大変少ないのが実情です。
おおかた秀吉の朝鮮出兵は、次のような理由によるものとされています。

・秀吉がもうろくしていたために起こした。
・秀吉の成長主義が引き起こした身勝手な戦いであった。
・戦いを好む戦国武士団を朝鮮、中国に追い払い、殺して数を減らすためだった。


いずれも、「木を見て森を見ず」です。
仮に秀吉がもうろくしていたとしても、
当時の日本は、各藩がそれぞれ独立した国を営んでいたのです。
もうろくジジイの世迷い事で、大枚をはたいて
朝鮮までノコノコ出ていくおバカな大名は、全国どこにもいません。

秀吉の成長主義が招いたという話にしても、
信長から秀吉と続く体制は、農業重視というよりも流通指向がかなり強く、
それぞれの大名は領地が増えなくても、商業による貨幣経済によってかなりの富が蓄積できたわけです。
金持ち喧嘩せずという言葉がありますが、
食うに困らない、生活に困らない豊かな生活を満喫できているのに、
あえて戦争など、誰も好き好んで行うものではありません。

では、なぜ秀吉は朝鮮出兵を行い、世の大名たちも、これに追従したのでしょうか。
この問題を考えるには、日本国内だけに目を向けていては答えは出てきません。
秀吉が朝鮮出兵をするに至った背景には、
当時のアジア情勢という国際政治が大きく影響していたのです。
そしてそういう国内外の事情を理解したからこそ、
東北の大名たちまでもが、秀吉の朝鮮出兵に前向きに協力し、兵を出しているのです。

そもそも、二度にわたる秀吉の朝鮮出兵(文禄、慶長の役)というのは、
16世紀における東アジアでの最大の戦いです。
文禄の役だけでも、日本は約16万人の軍勢を朝鮮半島に送り込み、
朝鮮と明国の連合軍は25万人の大軍でこれを迎え撃ちます。
慶長の役では、日本は再び約14万人を動員します。
天下分け目の関ヶ原の戦いにしても、東軍7万、西軍8万ですから、
いかに朝鮮出兵の規模が大きかったかが分かります。

そしてこの時代、世界全体を見渡せば、
世界中に植民地を獲得した「スペイン帝国」が、
植民地からもたらされた莫大な富によって覇権を握っていました。
太陽の沈まない国と形容され、黄金の世紀を謳歌していたのです。


そのスペインは、東アジア地域の戦略統合本郡である総督府を、
ルソン(いまのフィリピン)に置いていました。
そして、東アジア植民地の拡大を着々と進めていたのです。
スペイン人が日本に最初にやって来たのは、天文十八(一五四九)年のことです。
宣教師、フランシスコ・ザビエルの来日がそれです。

当時の宣教師の仕事は、表向きはキリスト教の伝道ですが、
本当の仕事は、将来その地を植民地とするために情報を収集することや、
さまざまな懐柔工作です。

実際にキリスト教を伝道しながら、ありとあらゆる手段を使い、多くの人を改宗させます。
それらの人々を味方につけ、頃合いを見計らって軍隊を送り込み、
抵抗する者を殺戮し、その地を植民地占領していくのです。

内乱に明け暮れていた戦国大名たちは、そんな宣教師の目的を知りません。
最初は西洋からやって来た宣教師たちを、快く受け入れていました。
実際、ザビエルはあちこちの大名に招かれ、なかにはキリスト教の信者になった者もいました。
宣教師たちの仕事は順調に進んでいるかに思われました。

ところが唯一、日本がほかの国々と違っていたのは、
彼らが持ち込んだ鉄砲という武器を、日本人は瞬く間にコピーし、それを量産してしまったことです。
気がつけば、なんと日本は、鉄砲保有数で世界一になってしまいました。
その数、当時の世ちょう界の鉄砲数の半分にあたる約50万丁。
もっともこれは、最盛期の数ですが、
鉄砲は戦国時代の日本に、ものすごい勢いで広がっていったのです。

これには宣教師たちも驚いた様子で、
イエズス会のドン・ロドリゴ、フランシスコ会のフライ・ルイス・ソテロらが、
スペイン国王に送った上書には、次のような記述があります。

 スペイン国王陛下、
 陛下を日本の君主とすることは望ましいことですが、
 日本は住民が多く、城郭も堅固で、
 軍隊の力による侵入は困難です。
 よって福音を宣伝する方策をもって、
 日本人が陛下に喜んで臣事するように
 仕向けるしかありません。

人口なら、日本より南米やインドのほうがはるかに数が多いわけで、
城だって日本は平城が主流ですから、アジア、ヨーロッパの城塞には敵いません。
にもかかわらず、彼らが「日本は住民が多く、城郭も堅固で、
軍隊の力による侵入は困難」と書いているのは、
「鉄砲の数が圧倒的で、軍事力で日本には敵わない」とは、
国王宛ての上書に書けないからです。

そして、「福音を宣伝する方策をもって、
日本人が陛下に喜んで臣事するように仕向ける」ように進言しているのです。
こうしてスペインは、日本での布教活動に注力していきます。

一方、あたりまえのことですが、スペインの狙いは日本だけではありません。
お隣の明国も、スペインは植民地化を狙っています。
こちらは鉄砲をコピーするような能力はなく、単に人海戦術、つまり人の数が多いだけです。
ただ国土は広く、その調略には手間がかかります。

ちなみに当時のスペインにとって、朝鮮半島は対象外です。
朝鮮半島は、明国の支配下だったわけですから、明が落ちれば朝鮮半島は、自動的に手に入る。
それだけのことです。

スペインは明国を攻略するにあたり、当時、世界最大の武力(火力)を持っていた日本に、
一緒に明国を奪わないか、と持ちかけています。
ところが日本は、まるでそんなことに関心がありません。
そもそも信長、秀吉と続く戦国の戦いは、
日本国内の戦国の世をいかに終わらせ、国内に治安を回復するかにあったのです。

信長は、比叡山や本願寺まで攻めたため、
まるで第六天の魔王であるかのように描かれることが多いですが、
実際には、信長の戦いの目的は、「一日も早く戦乱の世を終わらせる」ことに尽きたのです。
だからこそ、多くの人々が信長に従ったということが、
最近になって発見された各種文書から、次第に明らかになってきています。

これは秀吉も同様です。
しかも、農民の出だから農民の気持ちが分かるのです。
戦乱によって農地が荒らされることを多くの民衆が嫌っていることを、
ちゃんと分かっていたからこそ、秀吉は人気があったのです。
要するに、当時の信長、秀吉にとっては、
日本国内統一と治安の回復こそが政治使命だったわけで、
お隣の明国になどかかわっていられなかったのです。

▼朝鮮出兵は安全保障上の理由から

ところが、秀吉が日本を統一すると、
次第に明国への対策が大きな政治課題となって浮上してきました。
どういうことかというと、これにスペインが関係しているのです。
スペインが日本を攻めようとしても、遠路の航海を余儀なくされますから、
世界の覇権国とはいえ大軍を差し向けることは不可能です。
仮にスペインが海を渡って攻めてきたとしても、数のうえからいえば少数であり、
火力、武力ともに日本のほうが圧倒的に優位です。
したがって、スペインとの直接対決ならば、日本が負ける心配はありません。

ところが、スペインが明国を植民地として支配下に収めると状況が変わってきます。
スペインに支配された明国兵が、数の力にモノをいわせて日本に攻め込んできたら、
日本は数多くの鉄砲を持っているとはいえ、これは大変なことになります。
まさに、元寇の再来。大きな脅威です。

この脅威を取り除くには、スペインよりも先に明国を日本の支配下に置くしかありません。
火力、武力に優れた日本には、それは十分可能なことだし、
万一明国まで攻め込むことができなかったとしても、
地政学的に朝鮮半島を日本と明国の緩衝地帯として置くことで、
日本への侵入、侵略を防ぐことができるのです。
このことは、ロシアの南下政策を防ぐために、
明治日本が行った政策と、当時の状況が酷似していることをあらわします。

さらにいえば秀吉は、すでにこの時点でスペインの誇る無敵艦隊がイギリスに敗れ、
スペインが海軍力を大幅に低下させていることを知っています。
ですから、スペインが海軍力で日本と戦端を交える可能性はまずありません。

一方、国内で秀吉は、長く続く戦乱の世を終わらせようと、全国で刀狩りを実施します。
刀狩りそのものは、日本に太平の世を築くために必要なことであったわけですが、
同時に庶民から武器を奪うことは日本の戦力を大きく削ぐことにもつながってしまうのです。
もし日本が他国侵逼の難にあったときは、大きな痛手となるでしょう。

ならば、武力がまだ豊富なうちに余剰戦力を用いて朝鮮出兵を行い、
朝鮮から明国までを日本の支配下に置いてしまうこと。
これは我が国の安全保障上、必要なことであったわけです。

▼スペインに強硬な態度で臨んだ秀吉

こうして秀吉は、文禄の役(1592〜1593年)、
慶長の役(1597〜1598年)と二度にわたる朝鮮出兵を行うのですが、
同時に秀吉は、スペインとも果敢な政治的交渉を行っています。
何をしたかというと、スペインに対し、「臣下の礼をとれ」と迫ったのです。

最初にこれを行ったのが、文禄の役に先立つ一年前、天正18(1591)年9月のことです。
秀吉は東亜地域の拠点、ルソンにあるスペイン総督府に、原田孫七郎を派遣し、
「スペイン総督府は、日本に入貢せよ」との国書を手渡します。
世界を制する大帝国のスペインに対し、
真正面から堂々と「入貢せよ」などとやったのは、
おそらく、世界広しといえども、日本くらいなものです。
まさに、気宇壮大というべきです。

対するスペイン総督府にしてみれば、これはきわめて腹立たしいことです。
しかし、隣国でるイギリスの国力が増し、
自国の防衛を優先させなければならない当時のスペインの現状にあっては、
日本に対して報復的処置をとるだけの力はありません。悔しいけれど放置するしかありません。

すると秀吉は、その翌年に、朝鮮出兵を開始するのです。
驚いたのはスペイン総督府です。
日本が明国を征すれば、その国力たるや東アジア最大となり、
スペインにとって政治的、軍事的圧力となることは目に見えています。
しかも、海を渡って朝鮮出兵をするということは、
兵員を海上輸送する能力があるということですから、
いつ、ルソン島に日本が攻めて来てもおかしくありません。

慌てたスペイン総督府は、当時ルソンに住んでいた日本人たちを、
マニラ市内のディオラ地区に、集団で強制移住させています。
これがマニラの日本人町の始まりです。

さらにスペイン総督府は、同年七月にドミニコ会士、フアン・コーボを日本に派遣し、
秀吉に友好関係を樹立したいとする書信を届けています。
このとき、膨大な贈り物も持参しています。
いかにスペインが日本を脅威に感じたかということです。

だれど秀吉は、そんな贈り物くらいで騙されません。
重ねてスペインの日本に対する入貢の催促の書簡を手渡します。
その内容がすさまじいです。

 スペイン国王は、日本と友好関係を打ち立て、
 ルソンにあるスペイン総督府は、
 日本に臣下としての礼をとれ

というものです。そして、

 それが嫌なら、日本はマニラに攻めこむぞ。
 このことをスペイン国王にちゃんと伝えろ

というのです。
とこが秀吉の書簡を受け取ったフアン・コーボは、帰路、遭難してしまいます。
本当に海難事故で遭難したのか、
返書の内容が百パーセント、スペイン国王の怒りを買うことが分かって、
故意に遭難したことにしたのかは、いまとなっては不明です。
けれどおそらく、これは後者ではないかと私は見ています。

▼秀吉の世界戦略

さて、フアン・コーボの遭難のおかげで、
秀吉の書簡はスペイン総督府には届かなかったわけですが、
当然のことながら、スペイン総督府からの返書もありません。
けれど、返書がないからと、放置するほど甘い秀吉ではありません。
秀吉は、10月には原田喜右衛門をマニラに派遣し、確実に書簡を総督府に届けさせたのです。

文禄2(1592)年4月、原田喜右衛門は、マニラに到着しました。
そしてこのとき、たまたま在マニラの中国人約二千人
(明国から派遣された正規兵だったといわれています)が一斉蜂起して、
スペインの総督府を襲ったのです。
スペイン兵は応戦しますが、多勢に無勢です。
これを見た原田喜右衛門は、手勢を率いてスペイン側に加勢し、
瞬く間に中国兵を殲滅してしまいます。

日本強し。
原田喜右衛門らの圧倒的な強さを目の当たりにしたスペインのゴメス総督は、
日本の強さに恐怖します。
けれどゴメスは、スペイン大帝国から派遣されている総督です。
世界を制する大帝国王に、日本に臣下としての礼をとらせるなど、
とてもじゃないが報告できることではありません。
ゴメスは困り果ててしまいます。

そして、翌文禄3(1594)年4月に、
新たにフランシスコ会士のペドロ・バウティスタを特使に任命し、日本へ派遣します。
要するに、特使の派遣を繰り返すことで、少しでも時間稼ぎをしようしたのです。
名護屋(現、佐賀県唐津市)で秀吉と会見したペドロは、
スペインがいまや世界を制する大帝国であること、
日本とはあくまでも「対等な」関係を築きたいと申し述べます。
普通に考えれば、世界を制する大帝国のスペイン国王が、
日本という東洋の小国と「対等な関係」というだけでも、ものすごい譲歩です。
けれど、秀吉は聞く耳を持ちません。
ペドロに対し、重ねてスペイン国王の日本への服従と入貢を要請します。

なぜ秀吉は、ここまでスペインに対して強硬だったのでしょうか。
理由があります。

第一に、
国際関係において、対等な関係というものは存在しないのです。
この時代における国際関係というのは、やるかやられるか、つまり上下の関係しかありません。
たとえ日本が小国であったとしても、大帝国のスペインに日本を攻めさせないためには、
日本が圧倒的な強国であることを、思い知らせるしかなかったのです。

第二に、
もし、秀吉が中途半端に「対等な関係」の構築を図ろうとするならば、
スペインは当然のごとく平和特使と称して宣教師を日本に派遣します。
そして宣教師たちは、日本の内部から切り崩し工作を行います。
現に、世界のあらゆる国家が、その方法でスペインの植民地にされていたのです。
ですから、日本がスペインの驚異から逃れる道は、ただひとつ。
あくまでスペインに対して、強硬な姿勢を崩さないこと。
これしかなかったのです。

第三に、
秀吉が目指したのは、あくまでも「戦のない世の中」であったということです。
武力で日本を統一したあとは、「刀狩り」を行い、
内乱の芽をつんで太平の世を実現しようとしています。
けれど、刀狩りをして庶民から武器を奪うことは、
一方において日本を弱化させることを意味します。
ならば、日本国内に武器を持たない平和な国を実現するためには、
国際的な武力衝突の危険を、日本からできる限り遠ざける必要があったのです。

▼スペインの戦略とサン・フェリペ号事件

名護屋における秀吉とペドロとの会見が物別れになると、
スペインのゴメス総督は、日本への軟弱な外交姿勢を咎められ、
スペイン国王によって更迭されてしまいます。
そして後任の総督としてやって来たのが、ルイス・ダスマリニャスです。

ルイスは、アウグステイン・ロドリゲスを使者として日本に派遣し、
回答の引き延ばしを図るとともに、日本の
戦力を冷静に分析します。
そして、ゴメスの分析どおり、もし日本とスペインが東アジアで正面から衝突すれば、
スペイン側に勝ち目がないことを知ります。
そこでルイスは秀吉との直接交渉は避け、
一人また一人と、宣教師を日本に派遣するという戦略をとりました。
つまり時間を稼ぎ、その間に当初の戦略どおり、日本に布教をしていこうとしたのです。

文禄3(1594)年には、ルイス総督の意向を受けて、
ヘロニモ・デ・ヘスス以下のフランシスコ会修道士四人が日本に派遣され、
日本での布教を再開しました。
秀吉もこれは認めています。

ところが、慶長元(1596)年のことです。
スペインの貨物船、サン・フェリペ号が、荷物を満載したまま遭難し、
土佐の浦戸に漂着したのです。
救助した船員たちを、秀吉の五奉行の一人である増田長盛が取り調べました。

そこで驚くべき事実が明らかになります。
なんとサン・フェリペ号の水先案内人が、
増田長盛に世界地図を見せ、次のような証言をしてしまったのです。

 スペイン国王はまず宣教師を派遣し、
 キリシタンが増えると次は軍隊を送り、
 信者に内応させてその伝道地の国土を征服するから、
 世界中にわたって領土を占領できたのだ。


その報告を受けた秀吉は、即座にキリシタン26名を逮捕しました。
そして彼らを長崎に送り、「キリシタンを続けたいなら外国へ出て行け。
日本に残りたいなら改宗しろ」と迫りました。
迷う26名に対し、長崎のイエズス会は、この26名の死罪を長崎奉行に申し出ます。

イエズス会の腹はこうです。
26名の信者をイエスの十字架になぞらえて見せ物にし、
間違いなく天国に行くことができたと宣伝する。
こうすることで、キリスト教徒としての栄光に輝く姿を印象づけ、信仰による団結心をたかめる。
このあたりの話は、本題からかなりそれるので、次の機会に詳しく書くことにします。

▼民族の気宇と誇り

要するに秀吉の朝鮮出兵は、統一国家をやっと形成した日本が、
スペインによる東洋の支配から国を守るために下した決断であった、ということです。
このことは、単に日本や朝鮮の国内事情だけを見ていてもまったく分かりません。
当時の世界情勢、東アジア諸国の情勢を視野に入れなければ、
秀吉がなぜ朝鮮出兵を決意したのか、多くの大名たちが、なぜその秀吉に従い兵を出し、
勇猛果敢に他国に出て戦ったのかが理解できません。

もっというなら、日本が明治という統一国家を形成してから
朝鮮半島を領有するまでの動きと、秀吉の朝鮮出兵当時の世界の動きは、
スペインがロシアに変わったほかはきわめて似ています。
同じことが歴史上、繰り返されたということなのです。

もし、秀吉が朝鮮出兵を行わず、
日本の国力をスペインに見せつけなければ、どうなっていたことでしょう。
明国がスペインの植民地になっていた可能性は非常に高いのです。
当然のことながら、朝鮮半島も、スペインの支配地となったことでしょう。

そしてスペインの植民地となることは、どういう意味を持つのか。
そのことは、いまの南米諸国が、見事に教えてくれています。
現在、南米に南米人の純粋種は存在しません。
白人との混血種だけです。


アルゼンチンやウルグアイでは、先住民族がほぼ完璧に抹殺されてしまいました。
いまこの地域に住んでいるのは、ほぼ白人種です。
ブラジル、エクアドル、ペルー、ボリビアは、全員が先住民族と白人との混血です。
純血種はいません。


日本も中国も朝鮮も、それぞれに純血種を保ちながら、いまに至っています。
南米のようなことにならなかったのは、秀吉と配下の戦国武将たちが、
スペインと真っ向から戦う姿勢を示したためです。

ちなみに、秀吉の死去にともなって、日本は朝鮮半島から撤収し、慶長の役は終わりました。
だから、朝鮮出兵は秀吉の気まぐれで起きた戦争だというのは、大きな間違いです。
半島に出兵した武将たちは、自ら進んで真剣に戦ったのです。

私たちは、スペインという世界最強の大帝国に対し、
一歩も退かず、むしろ臣従せよと迫った秀吉の壮大な気宇と誇りを、
いまこそ見習うべきときにきているのではないでしょうか。




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2021/05/11 12:16 おバカな連中 TB(-) CM(0)
※転載元http://www.excite.co.jp/News/odd/Tocana_201408_post_4531.html

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セウォル号の事故が起きた時、
韓国のインターネットでは「北朝鮮の潜水艦に沈められたのでは?」という陰謀論が巻き起こったが、
これは誤りであるだろう。
たしかに、珍島海域は海流が早く、潜水艦の運行音が海流音に紛れやすいため、
攻撃音が聞こえにくい利点がある。
しかし、海流が早いため通常の魚雷だと針路がずれるという難点もあるので、
北朝鮮が潜水艦を沈めたとは考えにくい。
やはり、この沈没事故は偶発的に起きたものと考えるのが正しいだろう。
しかし、事故そのものが偶発的であっても、問題はその後の政府の対応だ。
「適切な避難誘導」「迅速な救助活動」があれば、今よりも多くの乗客の命が助かったはずである。
つまり、そこには「人命救助よりも優先される何か」があったと考えられないだろうか? 
これこそが「セウォル号の秘密」なのである――。

■「済州島」の軍事基地
セウォル号の航路は「仁川港」から「済州島」へ向けて航路をとっていた。
仁川には、2013年7月に、総合電機メーカーであるLG電子が大規模な自動車部品研究開発基地を完成させている。
また、「済州島」は韓国海軍基地があるうえ、2014年4月の産経ニュースによると、
なんとここで中国軍基地の完成も迫っているという。
2つの軍事基地があるということは、日常的に軍事物資の輸送が行われていると考えられるのではないだろうか?

■米軍からの独立を願う韓国軍
しかし、ここで、多くの日本の皆さんはご存じないかもしれないので、
あえて申し上げておくが、実は「韓国軍」というものは存在しない。
朝鮮戦争以来、実は韓国の軍の指揮権はすべて米軍が持っており、
米軍の規則通りにしか軍を動かすことはできない。
たとえば、延坪島に対して北朝鮮が砲撃をしても、「
米軍が許可した1日の砲撃弾数」以上の弾を打つことはできないし、
北朝鮮に対して独立して宣戦布告を行うこともできない。
2013年の12月、南スーダンの国連平和維持活動において、
日本の自衛隊が韓国軍に対して1万発の銃弾を貸すという事件が起きたことからも明らかである。
これも、韓国軍は1人あたり「15発」と米軍に決められていたため、
それ以上の弾丸を保有しておらず、南スーダンの難民を守るどころか、
自分たちの身を守ることもできなかったことが起因している。

韓国は金大中大統領の時代以降「米軍から指揮権を韓国に戻す」運動をしていたものの、
米軍は「東アジアの治安のため」それを許さなかったのである。
現在は、2015年に米軍が戦時作戦統制権を韓国に返還する予定となっているが、
来るその時に向けて、韓国は米軍に隠れて、様々な軍事転用物資を作り、
それを民間の輸送に紛れ込ませて済州島に輸送していたとは考えられないだろうか?
その船こそ、セウォル号であった可能性があるのだ。
仮にそうだとすれば、軍事物資に気づいた生存者が「貨物にミサイルがあった」と発言されては困るのである。
だからこそ、口が堅い乗組員だけが生き残り、
何も知らない、噂好きの高校生たちは生存していない方が都合がよかった――、
「船内に待機せよ」と放送を流したのには理由があったとは考えられないだろうか?

■沈没の原因となった過積載の謎
まずは、事故の原因となったといわれる積載荷物である。
運送ドライバーたちによると「セウォル号では、重量測定をしているのを見たことがない」と答えたといわれているが、
重さから推測される荷物すらわからないように工作するというのは、
何か知られたくない物が入っていたのではないだろうか?
さらに、沈没の報に接し、近海で作戦行動中であった米軍強襲揚陸艦「ボノム・リシャール」から、
複数の救命ボートを積んだ2台のMH-60ヘリが急行したが、
韓国国防部の判断で救援参加は見送られた。
つまり「米軍に見られては困るもの」がセウォル号の中に入っていたのではないだろうか? 
それは沈没船をいまだに海の中に沈めたままであることでもわかる。
さて、このようなことから、韓国国民は「実質的オーナー兪氏」ではなく
「助けられる命を助けなかった朴槿恵政権」に対して怒りを感じている。
「何を隠しているのか?」と、真実を求めているのである。
この偶発的な事故によって、中国との蜜月関係を続け、
アメリカ軍からの指揮権の独立を準備している
朴槿恵政権の基本的な考え方が明らかになったといえるのかもしれない。
(文=聖橋乱丸)



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2021/05/11 12:16 おバカな連中 TB(-) CM(0)
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